2012年 10月 06日
欠落のゆくえ Ⅵ |
次の間付きで、八畳と十畳の二間分ある離れ。ここに通されて3分が過ぎた。
たぶん、普段は襖で仕切られているのだろうが、今はすべてが葦障子に変えられ、夏の設えになっているせいだろう。庭からの風が通り、汗が引いてきている。
木々は低く刈り込まれ、竹から絶えず水が流れ落ちている手水鉢は風に涼気を与えてくれるようだ。床板に置かれた蒼いガラスの花入れには蛍袋の花が背の高い縞葦と共に活けられ、掛け軸には行書で「山水」と「静音」とある。
ここから見える庭は、外の塀側から感じたものとはだいぶ違い、落ち着いた雰囲気だ。たぶん今日のような用事が無いときに来ることができたなら、時間の過ぎ去るのを忘れるかもしれない。
ここに案内してくださった人は「お約束の時間まで、こちらでしばらくお待ち願います」と言い、お盆の上に置いてあるポットから切子のグラスに冷たい麦茶を注いで行ってくれた。一口飲んで時計を見る。
約束は10時半で、まだ15分もある。
気を張っていたのか急いていたのか、今朝は仕事の時以上に早く起きてしまった。予約していた指定席を交換してもらい、2本早い新幹線に乗ってここまで来てしまったせいだ。
呼吸が浅くなっているのを感じる。
ホテルにVIPの方が宿泊され、そのような方のお部屋係りになっても由子は緊張した覚えが今までなかった。
いざ自分に関わることになるとこんなに違うのか。
ということは、今まで自分は緊張しない・平常心を保てると、勝手に思い込んでいたのは、単に関係性が無い人物だったからか。自身の世界の中に踏み込む人ではないと思えるから平気だったのかもしれない。
自分が知らない自分……ということか。
手紙を投函してから二週間後、由子宛ての返事を受け取った。
すぐに休みの希望をホテルに出し、その他の準備も始めた。
新幹線で東京駅に着いてすぐに電車を乗り継ぎ、駅からタクシーに乗った。
その間中、一般的には高級住宅街とか山の手と言われている景色が次々目に入ってくるのだが、頭の中にはこれから会う予定の細田剛史という人のイメージが勝手に湧きあがっていた。
60代、いや70代くらいか?髪は白髪交じりで全体的にはやや薄め、声は……低め?優しげな眼差しかもしれない。でも、奥に何か別のものを隠しているのかも。
そして、、、どう話を切り出したらいいのか……。
「この辺がその住所ですね」と運転手さんが言ったとおり、確かに電柱にはその番地が書かれていた。タクシーは、由子を降ろし、Y字に分かれた右の道に走り去り、すぐに見えなくなった。目の前には大和塀の黒と漆喰の白のコントラスト鮮やかな塀が続き、左右に広がるその塀のどちら側に行ったら入口があるのか、、、全く見当がつかなかった。
左奥を見ると、途中から肩が触れ合ってしまいそうなくらいに幅が狭い道になっていた。カートを引きタクシーと同じ道を選んだ。20mほど歩いたが玄関も勝手口も分からないまま曲がり角に差し掛かり、側の塀は相変わらず同じような高さのまま続いているのを見て、初めてスーツケースを駅のコインロッカーに預けてくれば良かったと、後悔した。
まだ10時前だったのに、勢いを増した陽はさえぎるもののない道を容赦なく照りつけ、汗が首筋に流れ落ちた。頬を撫でた風には熱気と共に、うっすらと花の香りもまじっていた。
見上げると、黒い塀の上に夏椿の白い花が見え隠れし、百日紅の紅い花も見えた。由子はどちらもあまり好きではない。存在感があり、その花単独で完成されているようにみえるから。
立ち止まったせいか一気に汗が顔から噴き出して、蝉の鳴き声が汗と一緒にまとわりつき、青いハンカチの色が変わるほど汗をおさえてから、スーツケースの持ち手を変え、角を曲がった。
10mほど歩いて、塀と同じ色に塗られた一枚板の部分にたどり着くが、そこには表札もポストも無かった。玄関なのか勝手口なのか全く見当もつかない。板は厚いのか薄いのか、所どころ鋲が打ち込んである。ぐるりと見わたし、小さなボタンを見つけ、おそるおそる押すと、目の前の門が、ゆるゆると左側に吸い込まれた。
もしかしたら?と、塀の上、おい茂る樹々の葉の閒をよく見ると、カメラらしき塊が見えた。
敷き詰めてある平な石の上を道なりに進む。後ろで閉じる音がゆっくり聞こえた。
平な石以外の部分は、樹の根本まで苔で覆われた庭。木漏れ日の中で石や木の幹にこんもり、しっかりはりついた苔が静かに呼吸しているようだ。石には水打ちした様子が残っている。その石畳みに、踵の音もカートを引く音も遠慮するほど響き、ロッカーに預けなかったことを再度後悔していた。
10時半まであと4分。
次の間にあるお手洗いを使い、汗が引いたままでいた顔をサッと直してから髪を梳かして戻る。床の間の見える入口側に正座した。
玄関の扉が開く音が聞こえる。
由子は、大きく息を吸いこんだ。
「お待たせした」と、乾いた声が聞こえ、目の前にスキンヘッドの目の大きな人が、敷居の向こう側に現れた。
たぶん、普段は襖で仕切られているのだろうが、今はすべてが葦障子に変えられ、夏の設えになっているせいだろう。庭からの風が通り、汗が引いてきている。
木々は低く刈り込まれ、竹から絶えず水が流れ落ちている手水鉢は風に涼気を与えてくれるようだ。床板に置かれた蒼いガラスの花入れには蛍袋の花が背の高い縞葦と共に活けられ、掛け軸には行書で「山水」と「静音」とある。
ここから見える庭は、外の塀側から感じたものとはだいぶ違い、落ち着いた雰囲気だ。たぶん今日のような用事が無いときに来ることができたなら、時間の過ぎ去るのを忘れるかもしれない。
ここに案内してくださった人は「お約束の時間まで、こちらでしばらくお待ち願います」と言い、お盆の上に置いてあるポットから切子のグラスに冷たい麦茶を注いで行ってくれた。一口飲んで時計を見る。
約束は10時半で、まだ15分もある。
気を張っていたのか急いていたのか、今朝は仕事の時以上に早く起きてしまった。予約していた指定席を交換してもらい、2本早い新幹線に乗ってここまで来てしまったせいだ。
呼吸が浅くなっているのを感じる。
ホテルにVIPの方が宿泊され、そのような方のお部屋係りになっても由子は緊張した覚えが今までなかった。
いざ自分に関わることになるとこんなに違うのか。
ということは、今まで自分は緊張しない・平常心を保てると、勝手に思い込んでいたのは、単に関係性が無い人物だったからか。自身の世界の中に踏み込む人ではないと思えるから平気だったのかもしれない。
自分が知らない自分……ということか。
手紙を投函してから二週間後、由子宛ての返事を受け取った。
すぐに休みの希望をホテルに出し、その他の準備も始めた。
新幹線で東京駅に着いてすぐに電車を乗り継ぎ、駅からタクシーに乗った。
その間中、一般的には高級住宅街とか山の手と言われている景色が次々目に入ってくるのだが、頭の中にはこれから会う予定の細田剛史という人のイメージが勝手に湧きあがっていた。
60代、いや70代くらいか?髪は白髪交じりで全体的にはやや薄め、声は……低め?優しげな眼差しかもしれない。でも、奥に何か別のものを隠しているのかも。
そして、、、どう話を切り出したらいいのか……。
「この辺がその住所ですね」と運転手さんが言ったとおり、確かに電柱にはその番地が書かれていた。タクシーは、由子を降ろし、Y字に分かれた右の道に走り去り、すぐに見えなくなった。目の前には大和塀の黒と漆喰の白のコントラスト鮮やかな塀が続き、左右に広がるその塀のどちら側に行ったら入口があるのか、、、全く見当がつかなかった。
左奥を見ると、途中から肩が触れ合ってしまいそうなくらいに幅が狭い道になっていた。カートを引きタクシーと同じ道を選んだ。20mほど歩いたが玄関も勝手口も分からないまま曲がり角に差し掛かり、側の塀は相変わらず同じような高さのまま続いているのを見て、初めてスーツケースを駅のコインロッカーに預けてくれば良かったと、後悔した。
まだ10時前だったのに、勢いを増した陽はさえぎるもののない道を容赦なく照りつけ、汗が首筋に流れ落ちた。頬を撫でた風には熱気と共に、うっすらと花の香りもまじっていた。
見上げると、黒い塀の上に夏椿の白い花が見え隠れし、百日紅の紅い花も見えた。由子はどちらもあまり好きではない。存在感があり、その花単独で完成されているようにみえるから。
立ち止まったせいか一気に汗が顔から噴き出して、蝉の鳴き声が汗と一緒にまとわりつき、青いハンカチの色が変わるほど汗をおさえてから、スーツケースの持ち手を変え、角を曲がった。
10mほど歩いて、塀と同じ色に塗られた一枚板の部分にたどり着くが、そこには表札もポストも無かった。玄関なのか勝手口なのか全く見当もつかない。板は厚いのか薄いのか、所どころ鋲が打ち込んである。ぐるりと見わたし、小さなボタンを見つけ、おそるおそる押すと、目の前の門が、ゆるゆると左側に吸い込まれた。
もしかしたら?と、塀の上、おい茂る樹々の葉の閒をよく見ると、カメラらしき塊が見えた。
敷き詰めてある平な石の上を道なりに進む。後ろで閉じる音がゆっくり聞こえた。
平な石以外の部分は、樹の根本まで苔で覆われた庭。木漏れ日の中で石や木の幹にこんもり、しっかりはりついた苔が静かに呼吸しているようだ。石には水打ちした様子が残っている。その石畳みに、踵の音もカートを引く音も遠慮するほど響き、ロッカーに預けなかったことを再度後悔していた。
10時半まであと4分。
次の間にあるお手洗いを使い、汗が引いたままでいた顔をサッと直してから髪を梳かして戻る。床の間の見える入口側に正座した。
玄関の扉が開く音が聞こえる。
由子は、大きく息を吸いこんだ。
「お待たせした」と、乾いた声が聞こえ、目の前にスキンヘッドの目の大きな人が、敷居の向こう側に現れた。
by sozo12-9
| 2012-10-06 00:38
| 物語