2012年 09月 17日
欠落のゆくえ Ⅴ |
新しいホテルで働くなんて自分には全く縁のない話。わざわざ時間をとって聞く必要もなければ、こちらの事情を詳しく説明する義務もないだろう。
「申し訳ございません。興味がありませんので……。お掃除おわりましたので、これで失礼いたします」
「彗谷さん、これはひとつの転機です。新しいホテルで新スタッフと共にあなたの将来性をかけてみませんか」 ドアに向かって歩いている背中に、甲斐さんの力強い声が聞こえてきた。
廊下に出て、振り向いて一礼する。
カチリとドアが閉まるまで、由子は頭を下げたままでいた。
半身浴後のカモミールティーが効かない。いつもなら自然に眠くなってくるのに、「転機」という言葉に誘発された想いが離れない。
7代目を継ぐために修行している自分。新ホテルのスタッフになり、一つの部門の責任者になった姿を考えた自分。デザインの勉強をして何かを作り上げようと思ったことを諦めた自分。迷っているわけではなかったはず。なのに、今という場所から、何かを、あるいは何処かへ案内されているような感じがあった。
自由に移動できる身だったら、もっとその話を聞いてみたいと思わせるほど甲斐さんの声は真剣で、説得力があった。もっとも、引き抜きのスタッフなのだからあのくらいの迫力がなければ務まらないのだろうが。
2杯目を少し濃く淹れた。
寮の1Kの部屋はカモミールの香りで満たされていた。
**********************
「甲斐さん、で、どうでした由子の様子は?」
電話口からせせらぎの音が聞こえてくる。
「いや~、話はしてみたのですが、まったく乗ってきませんでしたね。お給料のアップや地位を提示するより、由子さんという方にはもっと違ったアプローチがいいのかもしれません」
「と、いうと?」
「年収や肩書き、その方がやりたいと思っている仕事の内容や権限の拡充などが大抵の方が望む条件だということは、涼子さんも分かっていただけますよね。でも由子さんの場合にはもっとご自身の内面的なこと刺激的で冒険があるような。そう、底から湧き上がるような、本質的な何かがいいかも……」
「とにかく、どんな方法でもいいから、由子が『龍彗館を継がない』という決断をしてくれさえしたらいいのよ」
「ご依頼の趣旨はよく存じ上げています。今度は条件と同時に彼女のプライドの面をくすぐってみるつもりです。それで手ごたえが少しでもありましたら、その方面でプッシュしてみますので。ただし普通の引き抜きのご依頼と違って、条件に合わせた引受先も面倒みるわけですから、2倍以上の手数料になりますこと分かっていらっしゃいますよね」
「そっちのほうは、母が。なんといっても『私も跡を継ぐ権利はある』って、ずっと小さい頃から聞かされて育って。父がリストラされてから余計こっちにプレッシャーかけてきて大変なの。おまけにもう一人ライバルはいるし」
「もうひとり?」
「そっちは大丈夫。私が次の女将になったら、結婚してあげるって言ったらコロッと寝返ったから」
「ハァ……、涼子さんも大変ですね。お母さんの願いとそのライバルの方への対応と、おまけに現女将さんに認めてもらうための努力。加えて従業員への気遣い」
「一番の要は由子よ。それをあなたに託した私の思い、分かってくれるでしょ」
「望むものを掴み取ろうとするその根性と手腕。評価していますよ。手段はさておいて……ね」
最初に出会った時の最悪と思われるその情景が、互いの中で一瞬よぎった。
「ねぇ、窓、開いてるの?」
「あ、今あの時のこと思い出していた?」
「そう……あなたも?川が流れる音が聞こえてくるから」
電話を掛けているのに、相手がそばに居るような錯覚を互いが描いていた。
「話は変わるけれど、母が言っていました。由子のお母さん、結婚する前半年ばかり行方不明になったことがあったって。自分のほうがその間も旅館のことをしっかり守ったのに、姉というだけであの旅館の女将になったのは許せないって」
「それは初耳ですね。分かりました。何かに使えるかもしれませんから、調べさせます。今夜はこれで。明日は全国的に雨の予報が出ていましたが、そちらはまだストーブ炊いてますか」
「ええ。時々ね。雨か……。朝、気温下がるかも。じゃ、おやすみなさい。由子の件よろしく」
「おやすみなさい。あさって、またお電話ください」
********************
結局3時間ほどしか眠れなかった。
シャワー後、髪をまとめた由子は、手紙を書き始めていた。
「申し訳ございません。興味がありませんので……。お掃除おわりましたので、これで失礼いたします」
「彗谷さん、これはひとつの転機です。新しいホテルで新スタッフと共にあなたの将来性をかけてみませんか」 ドアに向かって歩いている背中に、甲斐さんの力強い声が聞こえてきた。
廊下に出て、振り向いて一礼する。
カチリとドアが閉まるまで、由子は頭を下げたままでいた。
半身浴後のカモミールティーが効かない。いつもなら自然に眠くなってくるのに、「転機」という言葉に誘発された想いが離れない。
7代目を継ぐために修行している自分。新ホテルのスタッフになり、一つの部門の責任者になった姿を考えた自分。デザインの勉強をして何かを作り上げようと思ったことを諦めた自分。迷っているわけではなかったはず。なのに、今という場所から、何かを、あるいは何処かへ案内されているような感じがあった。
自由に移動できる身だったら、もっとその話を聞いてみたいと思わせるほど甲斐さんの声は真剣で、説得力があった。もっとも、引き抜きのスタッフなのだからあのくらいの迫力がなければ務まらないのだろうが。
2杯目を少し濃く淹れた。
寮の1Kの部屋はカモミールの香りで満たされていた。
**********************
「甲斐さん、で、どうでした由子の様子は?」
電話口からせせらぎの音が聞こえてくる。
「いや~、話はしてみたのですが、まったく乗ってきませんでしたね。お給料のアップや地位を提示するより、由子さんという方にはもっと違ったアプローチがいいのかもしれません」
「と、いうと?」
「年収や肩書き、その方がやりたいと思っている仕事の内容や権限の拡充などが大抵の方が望む条件だということは、涼子さんも分かっていただけますよね。でも由子さんの場合にはもっとご自身の内面的なこと刺激的で冒険があるような。そう、底から湧き上がるような、本質的な何かがいいかも……」
「とにかく、どんな方法でもいいから、由子が『龍彗館を継がない』という決断をしてくれさえしたらいいのよ」
「ご依頼の趣旨はよく存じ上げています。今度は条件と同時に彼女のプライドの面をくすぐってみるつもりです。それで手ごたえが少しでもありましたら、その方面でプッシュしてみますので。ただし普通の引き抜きのご依頼と違って、条件に合わせた引受先も面倒みるわけですから、2倍以上の手数料になりますこと分かっていらっしゃいますよね」
「そっちのほうは、母が。なんといっても『私も跡を継ぐ権利はある』って、ずっと小さい頃から聞かされて育って。父がリストラされてから余計こっちにプレッシャーかけてきて大変なの。おまけにもう一人ライバルはいるし」
「もうひとり?」
「そっちは大丈夫。私が次の女将になったら、結婚してあげるって言ったらコロッと寝返ったから」
「ハァ……、涼子さんも大変ですね。お母さんの願いとそのライバルの方への対応と、おまけに現女将さんに認めてもらうための努力。加えて従業員への気遣い」
「一番の要は由子よ。それをあなたに託した私の思い、分かってくれるでしょ」
「望むものを掴み取ろうとするその根性と手腕。評価していますよ。手段はさておいて……ね」
最初に出会った時の最悪と思われるその情景が、互いの中で一瞬よぎった。
「ねぇ、窓、開いてるの?」
「あ、今あの時のこと思い出していた?」
「そう……あなたも?川が流れる音が聞こえてくるから」
電話を掛けているのに、相手がそばに居るような錯覚を互いが描いていた。
「話は変わるけれど、母が言っていました。由子のお母さん、結婚する前半年ばかり行方不明になったことがあったって。自分のほうがその間も旅館のことをしっかり守ったのに、姉というだけであの旅館の女将になったのは許せないって」
「それは初耳ですね。分かりました。何かに使えるかもしれませんから、調べさせます。今夜はこれで。明日は全国的に雨の予報が出ていましたが、そちらはまだストーブ炊いてますか」
「ええ。時々ね。雨か……。朝、気温下がるかも。じゃ、おやすみなさい。由子の件よろしく」
「おやすみなさい。あさって、またお電話ください」
********************
結局3時間ほどしか眠れなかった。
シャワー後、髪をまとめた由子は、手紙を書き始めていた。
by sozo12-9
| 2012-09-17 06:28
| 物語